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| 2006年 12月28日 連載 エッセイ 「浮世真ん中」(269) *<戌が行く・亥が来る> 陰暦も霜月中旬。 気温も20度を切ったり切らなかったりして、ようやく冬らしくなってきた。クリスマスパーティーを2つ、忘年会を3つこなした。年を越すのもなかなか楽ではない。 ![]() 琉歌に ♪今日ぬ夕間暮や互げに打ち揃るてぃ 暮りてぃ行く年ぬ名残語たら <きゆぬ ゆまんぐぃや たげに うちするてぃ くりてぃいく とぅしぬ なぐりかたら> とある。 昼間のうちに、親しい人や親戚筋に<集い>の誘いをかけた1首である。 「今日、日が落ちたころわが家に揃っておいでなさい。暮れゆく年のことなど、語り合おうではないか」 今風に言えば、忘年会を開いたのであろう。しかし、この「名残を語る会」は、男たちが中心。昔の女性たちは、年ぬ夜<とぅしぬ ゆうる。大晦日>まで働いた。 「師走ぬ女や、道端ぬ草ん踏ん枯らすん=しわーしぬ ゐなぐや みちばたぬくさん くん からすん」 訳=師走の女、殊に主婦は道端の草も踏み枯らす。稼業はもちろんのこと、方々を駆けめぐり、正月を迎えるのに大わらわ。 男たちはこの1年間、家族のために働いた。女たちはそれを慰労しようと、出来るかぎりの馳走を揃える。さらには、いかに貧しく過ごした1年であっても「明ま年=あきまどぅし」に夢をかける正月行事は怠らなかったのである。 年末の少年少女たちは皆、素直だった。日頃のきかん坊も、この時期の親の言いつけには、決して背かず、むしろ積極的に行動した。殊に食材の買い出しに協力した。 「クァッチー<馳走>と言ってもわが家の場合、デークニ<大根>が主だった。多少のシシ<肉>やクーブ<昆布>の入ったンブシー<煮つけふう料理>。それは年に幾度しか口に入らなかったから、年の瀬のアンマー<母親>の手伝いは率先してやったものだ。何時の話?そうね、私が12・3才のころだから・・・・昭和6・7年ころだ。那覇の泉崎から東町の那覇ぬマチ<市場>のヤーシェーマチ<野菜市場>を幾度、往復したことか。有名な鏡地<かがんじ>デークニ4・5本を家まで運ぶのは、少年にとって重労働だったよ。でも、これがアンマーのティーアンダによるホカホカのンブシーになると思うと、デークニをくくった縄が、持つ手のひらに食い込むのもいとわず、寒風の中を汗をかきかき早足で歩いた。食い物のためなら子どもは素直になれたが、いまはどうだろうかな」 沖縄芸能史及び風俗史研究家崎間麗進さんは、遠い日の年末・年始体験を目を細めて語ってくださった。 ![]() 寒い日の主役のひとつは火鉢。 ♪掻ちあさいあさい埋火ゆ起くち 寄らてぃ語らゆる冬ぬ今宵 <かちあさいあさい うじゅんびゆうくち ゆらてぃ かたらゆる ふゆぬくゆい> 歌意=埋火<うじゅんび>は、火種を絶やさないように火鉢の灰をかぶせておく炭火のこと。冬の夜長、床につくまでは家族が揃い、ランプの光の中で暖をとる。皆、押し黙ったままではあるが、赤々とした炭火に手をあぶっている。時たま、兄や姉・弟や妹、あるいはアンマー・スー<主。父親>の手にふれる。それがまた火鉢の火にも増して、心の中まであたたまる。そこにシンビー<煎餅>や旬のシマ蜜柑カーブチーがあれば、年の瀬も正月も十分だった。 その様子を詠んだ1首。 「ふぃークァッチー」なる言葉は、冬の季節用語だ。 昭和20年・終戦の年の1年生の私も「ふぃークァッチー=火馳走」にあずかった。戦火を越えたばかりで皆、等しく貧困だった。それだからこそ、あの日の埋火は殊更温かったように思える。「冬の火」どんな馳走にも勝る。 しかも家族は、ひとつの部屋に枕を並べて就寝した。どんな暖房機器よりも、快いぬくもりがあったことをいまでも、身体が覚えている。 戌が行く。亥が来る。 いい事も悪いことも多々だったこの亥年。なんとか過ごしてきた。 “正月や冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし” 俳人のそんな句を思い出すのも、いい年頃になった証だろう。亥年も浮世真ん中、時に端っこをゆっくり歩むことにする。 ◇ 戌年のお付き合いニフェーデービタン<ありがとうございました>。 亥年もユタシク フィラてぃ呉みそぉーり<よろしく御交際下さい>。 |
| 2006年12月分 |
| 週刊上原直彦(269)<戌が行く・亥が来る> |
| 週刊上原直彦(268)<沖縄の米軍基地名・あれこれ> |
| 週刊上原直彦(267)<旧友の絵画展・画家> |
| 週刊上原直彦(266)<秋が行く・冬が来る> |