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週刊 上原直彦 「浮世真中」が本になりました!
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2005年 3月31日
連載 エッセイ
      「浮世真ん中」(178)

<追悼・林助さんのこと>

 2005年3月10日午前2時33分、照屋林助さんが逝った。享年76才。
 奇人、変人と言われることを、むしろ、快として、それを意識的に行動に移した人である。
 ある日突然、家屋を改造して「ライブハウスを開設する」と言う。もちろん、妻子は反対するが、自分のアイディアは絶対として、後に退く人ではない。アレッと言う間に出来上がったのが「てるりんハウス」である。りんけんバンドを率いるミュージシャン・息子林賢をして「家屋改造魔」と言わしめる改造事例は多々。書籍収納室。編集室。スタジオ。書斎・・・・。
 「ライブハウスはいいとして、集客はどうするのだ」
 林賢の問いに林助さんは、熱っぽく構想を語った。
 「いまや沖縄は、世界の注目の的だ。殊に県外からの観光客は年々増えている。この現実を見逃してはならない。沖縄文化を日本、いや、世界に知らしめる好機到来だ。集客?抜かりはない。空港や観光地に出向き、携帯マイクで呼びかけて、専用バスで送迎するのだ」
 林助さんは、計画通りバスを購入。自ら運転して、海洋博記念公園や空港に出かけ、集客につとめたのである。てるりんハウスは物珍しさもあって出足好調。しばらくは、県内外のリピーターやツアー客もあったのだが・・・・。世の中そう甘くなく最近のてるりんハウスは、仲間の遊び場になっていた。もちろん、本人が先頭に立った。
 笑芸一筋。
 1994年=沖縄市文化功労賞。1998年=沖縄タイムス社文化賞。同年=「てるりん自伝」で、タイムス出版文化賞。2003年=文化庁地域文化功労賞受賞。

 一芸に優れた人物には、エピソードが多い。林助さんのそれは、一冊の本が仕上がると言っても過言ではない。芸人林助さんのエピソードをひとつ。
 かの名優阪東妻三郎が、まだ準主役のころ撮った映画の打ち上げ記念写真。30人ほどの俳優、スタッフが3列になって写っているが、阪妻は後方の端にいて、しかも、横を向いている。
 「いずれワシは、大スターになる役者だ。集団写真の中で、まともに正面が向けるものかッ」
 後年、長男田村高廣に、そう語ったそうな。栴檀は双葉より芳ばし。
 わが照屋林助は、阪東妻三郎とは逆。正面向いて満面の笑顔を見せている。
 沖縄最後の毛遊び頭<もうあしびーがしら>と言われた金城睦松さんの葬儀の後、生前、親交のあった故竹中労、故歌者嘉手苅林昌、画家・陶芸家与那覇朝大、照屋林助等々が揃ってカメラに収まった。皆、睦松の死を悼んで沈痛の面持ちなのだが、林助さんだけが笑っている。
 「カメラを向けられると、ついニッコリしてしまうのだよ。芸人の性だね」

 <3月11日。沖縄タイムス掲載・追悼文>
 沖縄の笑いが、ひとつ消えた。
 舞天こと故小那覇全孝氏<歯科医師>の「笑芸」を引き継ぎ、さらには、それにラテンやロックのリズムを採り入れ、実に60年近く、常に知的に活動してきた林助さん。
 ワタブー芸・林助芸は、高度な話芸として、ひとつのジャンルを確立していた。古典音楽、民俗音楽に深く通じ、自らも7、800節の作詞作曲作品を提供し続けた。
 一方で、基地の街コザに生まれる諸々を「チャンプルー文化」と位置づけて、コザ独立国を建国、初代、いや、終身大統領を名乗って若者たちを引っ張ってきたのだが・・・・。実演家、作詞家、作曲家、作家、さんしん職人、深層心理学研究家、民俗学研究家エトセトラ。たくさんの肩書を持って、沖縄の笑芸を次代に渡してきた功績は多大と言えよう。見た目に似合わず、純な人柄。常に「日常を芸能化する」をテーマにしていた林助さん。
 「キミが見舞いに来るくらいだから、ボクが死ぬというウワサが立っているのか」
 そういわれて以来、再び顔を合わせてなかったのが心残りである。
 訃報に接した瞬間、心に穴があいた。しかし、その穴をさわやかな風が吹き抜けた。林助さんの笑芸がもたらした風なのだろう。
                             (放送キャスター・上原直彦)

 次号は2005年4月7日発刊です!


2005年3月分
週刊上原直彦(178)<追悼・林助さんのこと>
週刊上原直彦(177)<きっかけは・愚弄>
週刊上原直彦(176)<彼岸のころ>
週刊上原直彦(175)<世界を駆ける言葉たち>
週刊上原直彦(174)<春を連れて・さんしんの日>

過去ログ