毎週 木曜日発行!!  平成13年 11月1日創刊
 週刊 上原直彦 ニュース
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2004年 5月27日
連載 エッセイ
      「浮世真ん中」(135)

*<歯切れよく・・・・>

「歯欠き物言い=はぁ かき むぬいい」なる言葉がある。
歯はきれいに生え揃っているのに、肝心な事を話し合う際、言葉をにごしたり、意味不明で、もってまわった物言い。つまり、奥歯にモノのはさまったような物言い様をさして、「歯欠き物言い」という。
歯が、殊に前歯が欠けると息がもれて、活舌が悪くなる。中でも「サ行音」があやしくなるものだ。

イラク戦争。自衛隊派遣。人質。拉致。年金未納・・・・。その中での選挙。関わりのあるおエライさん方の発言、言い訳は、まさに「歯欠き物言い」だ。一刻も早く、前歯奥歯の矯正をおすすめしなければなるまい。歯車が噛み合わないと、このすばらしい国ニッポンは、どこへ転がり行くのか。

明治35年<1902年>。首里鳥堀<すい とぅんじゅむい>に歯科医院が開業した。院長は、東京歯科大学の前身である高山歯科医学院を卒業したばかりの鹿児島県加治屋町出身、柳長積25才。しかし、訪れる者なし。
当時はまだ、歯の衛生に対する認識は低く、歯磨きとは名ばかり。15センチ程に切った竹の皮の先を房状に割き、食塩をつけ、あるいはそれもつけず歯をこする。仕上げは、竹皮を弓状にして両手で舌の表面を掻き、口をすすぐ。人さし指に塩をのせて磨く方法、これが一般的だった。しかも、沖縄県誕生から25年しか経ってなく、大和人<やまとぅんちゅ=内地の人>に対する信頼度が低かったため「開店休業」を余儀なくされていたのだ。
かてて加えて、当時の人々は「歯医者というが、あれは医者じゃない。薬も注射もしないで、歯を抜いたり、削ったりする。まるで大工<しぇーく>。そうだ!歯大工<はぁ じぇーく>だッ」と言うありさま。
しかし、時流とはよくしたもの。沖縄県は、海外移民による経済、財政建て直しを実施した。海外に移民するには、受入れ国も健康を重視する。柳歯科院にも、人々が出入りするようになった。
それに伴って柳医師は、首里よりも人口の多い那覇に移転。天妃町<てんぴ ちょう。現西町>で開業することにした。小学校でも、健康な国民育成を標榜して歯科医師を置くようになっていた。柳医師は、沖縄県第一号の「歯科医師」に委託されて、健康教育に貢献することになる。
明治大正昭和と、歯科医療に尽くした柳医師だったが昭和16年。日米太平洋戦争勃発後に、故郷鹿児島に引き揚げているが、終戦後の昭和22年10月に逝去と、記録されている。明治10年生まれとあるから、享年70才。生涯の45年間を沖縄で過ごしたことになる。

日本で初めて入れ歯をしたのは、柳生家3代目飛騨守宗冬だそうな。2代目は、かの剣豪柳生十兵衛三厳。
昭和2年<1972年>。東京・練馬にあった柳生家の墓所に埋葬されていた宗冬の遺骨から、総入れ歯が発見された。いたって健康な歯だったようだが、なぜか意識的に抜歯して「総入れ歯にしたもの」と、専門家は鑑定。さらに、
「宗冬のそれは、寛永9年<1632年>から12年に作られたもので、世界初の総義歯ではあるまいか。床台は黄楊<つげ>の木。蝋石義歯」
とある。
沖縄で初めて入れ歯をした人物は誰か。興味を覚えて、友人の歯科医師に聞いてみた。
「さあ、どんなものだろう。手元に資料がないネ」
入れ歯と分かる白い歯をのぞかせて苦笑していた。

あまりいい言葉ではないが、極端に過ぎる物言い、発言をすると、それをたしなめ、あるいは封じ込めるために、
「前歯欠かりんどぉッ=めーば かかりんどぉッ。前歯を欠いてやるぞッ」
「前歯折らりんどぉッ=めーば うーらりんどぅッ。前歯を折るぞッ」
と、まあ、いささか暴力的な言葉をあびせる。前歯を欠かれたり、折られたりしては、いよいよ「歯欠き物言い」しなくてはならなくなる。
歯は健康のもと。大切にして健康で歯切れよく、本音で語り合えたとき、ニッポンは、まやかしのないすばらしい国になる。
「80才で20本の歯を維持しよう」
日本歯科医師会の提唱である。主旨は十分理解しているが・・・。奥歯を無理やり抜歯。私の歯は、60余りにして21本しかない。



 次号は2004年6月3日発刊です!

2004年5月分
週刊上原直彦(135)<歯切れよく・・・・>
週刊上原直彦(134)<蛍・じーなー・じんじん>
週刊上原直彦(133)<雨・イジュ・ユリ・ヤマムム・そして夏>
週刊上原直彦(132)<ザンの声が聞こえる>

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