毎週 木曜日発行!!  平成13年 11月1日創刊
週刊
 上原直彦
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2004年 2月26日
連載 エッセイ
      「浮世真ん中」(122)

*<風に乗る・さんしん>

風はどこまで音を運べるか。
東京・両国で打つ大相撲のやぐら太鼓が、千葉・木更津で聞こえたと、関係者がテレビで話していた。かつては、東京にも音の通る道があったということだろう。
沖縄、またしかり。沖縄芸能史及び風俗史研究家崎間麗進氏<84才>は語る。
「戦前の那覇の街は静かだった。西武門<にしんじょう>にあった蓄音機店の店頭でかける浜千鳥節やカッコーワルツが、風に乗って泉崎のわが家まで聞こえたものだ」
ボリュームの調整が効かない蓄音機の音がである。
トーマス・エジソン<1847−1931>が蓄音機を発明し、特許を取得してから、今年2月19日で126年になる。
大正末期から昭和初期。沖縄にも蓄音機が入ってきた。当時、人々は「ちくおんき」という耳慣れない機械を耳に入ったままの音韻で「チコンキ」と呼び、文明の確かなる足音を聞いたのである。しかし、所有できるのは裕福な家庭に限られた。
蓄音機なる文字も、チコンキの呼称すら知らない人々は、
「那覇には、歌をうたう機械、ものを言う機械、魔法の箱、歌上手の小人が入っている箱が現れたそうな」
と、うわさした。
地方からは、わざわざ、チコンキをひと目見ようと弁当持ちで那覇に出てくる勤勉な人もいて、蓄音機が発する音楽を<聞きに>行くとは言わず、チコンキを<見に>行くと自慢し、いかなる文明の利器なのか、百聞は一見にしかずを実践したのである。
昭和の名人とうたわれ、独特の「ふくばるぶし」で知られる歌者普久原朝喜翁<1903−1981>は、昭和2年。自ら作詞作曲・歌による「移民小唄」をはじめとして、100余曲にはなるであろう蓄音機<盤>を制作販売。それ故に後年、翁は「チコンキーふくばる」の尊称で民謡史に刻まれることになる。

戦前、わが家にも祖父の隠居部屋に蓄音機があった。時おり、民謡や古典音楽を聞くことが出来た。通称「ゆりぬはなぁ=百合の花」という拡声管が箱の上にあって、側面に付いたハンドル<クランク>を回してゼンマイを巻き、鉄製の針を盤に下ろすと、三絃の音と甲高い歌声、そして、洋楽器の演奏が流れる。
「この中には小人が入っている。ゼンマイが小人の御飯だ。御飯が少ないと、ちゃんとした歌がうたえない。気を入れてゼンマイを巻きなさい」
そう祖父に言いつけられて、必死になった5、6才の自分を記憶している。この作業は大抵、私とふたつ年上の姉の担当であった。
あのころ、何を聞いていたのか。
いまになって調べてみると、歌者は多嘉良朝成、カナ夫妻、桜家音子、赤嶺京子<後の普久原朝喜夫人>等の浜千鳥節、恋ぬ花、谷茶前など。また、金武良仁翁が昭和9年から11年にかけてコロムビアレコードで吹き込んだ古典音楽だったろうと思われる。ピアノ、バイオリンなどのソロや浅草オペラ田谷力三の「恋はやさしい野辺のはなよ」、藤原義江の「波浮の港」「鉾をおさめて」もあったそうだが、私の記憶には残っていない。
          
またぞろ、昔ばなし。
小禄村<現・那覇市。那覇港の南に位置>で弾く三絃が、奥武山の北東に広がる漫湖の川風に乗り、真和志村<現・那覇市>を越えて、古都首里の金城村まで聞こえたと言う。
3月4日は「ゆかる日まさる日・さんしんの日」
蓄音機は電蓄に進み、さらに、プレイヤーに昇格。蓄音機盤<78回転>も、45回転、33回転のレコードを経てCDになった。機材も高性能を誇ってはいるが、騒音防止法のからみか、特定の場所でしか聞けない。風にも乗らなくなった。
しかし、3月4日。三絃はRBCiラジオに乗ってふるさとの空を翔ぶ。いや、インターネットの風に乗って世界中に鳴り渡る。
その日三絃は、主会場読谷村文化センター鳳ホール勢ぞろいする音楽家のリードで県内はもちろん、東京、神奈川、愛知、北海道など。そして、ハワイ、ロサンゼルス、イギリスでも、祝い歌「かじゃでぃ風」を奏でる。


 次号は2004年3月4日発刊です!

2004年2月分
週刊上原直彦(122)<風に乗る・さんしん>
週刊上原直彦(121)<三絃・春を告げる>
週刊上原直彦(120)<鶏法度=とぅい はっとぅ>
週刊上原直彦(119)<角 重さする牛ぇ居らん>

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