毎週 木曜日発行!!  平成13年 11月1日創刊
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 上原直彦
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祝!連載100回!! 

2003年 9月25日
連載 エッセイ
      「浮世真ん中」(100)

*<こだわって100>

区切りを強調すればいいというものでもないが、キャンパスレコード社長備瀬善勝、真紀子親娘におだてられて、この「浮世真ん中」を書き、今回100週目だそうな。
原稿用紙4枚半。つとめて、季節ばなしを中心に<うちなぁーの日常>を思いつくままに綴ってきた。楽しんでいるのは私自身が一番だろう。
100週目。<100>の数字からの思いつきで「100年前の沖縄」のページをめくってみた。

1903年<明治36年>。アメリカでは12月17日。ライト兄弟が飛行機の試験飛行をなし。12秒−36:6メートルを飛んでいる。
100年後の2003年9月20日。八重山の子供たちは、紙飛行機による「石垣島飛行大会」を催し、ライト兄弟の12秒を更新すべくチャレンジした。結果、小学校3年生山田太平君の紙飛行機が15:33秒を飛んで、ライト兄弟の記録を塗り替えた。
さて。
アメリカが空に向かって夢を飛ばし始めたころ沖縄では、那覇市の「明治橋開通式・渡り初め」が挙行されている。明治橋は現・58号、東町と奥武山間に架かる橋。1883年<明治16年>7月。渡地<わたんじ>−奥武山<おおのやま>−垣花間に木橋が架けられたが、台風その他の天災のたびに流失したため、1903年5月31日。御物城<うむぬぐしく=王府時代の貿易品収納倉。出島で現在でも、軍港内に残存>を中心に見て、北明治橋約180メートル。南明治橋約90メートルが開通した。
開通式会場は、奥武山公園だったが、祝賀イベントとして糸満村<現・市>のハーリー。島尻郡<南部地域>15間切の馬勝負<んま すーぶ。競馬。所・泊村潟原>。内地相撲<所・波之上宮>。芝居<所・西町>。そして、大和芸者屋<やまとぅ げいさ やー>と呼ばれ、辻遊郭とは趣向を異にした料亭風月楼の芸妓による手踊りなどがあり、花火も50発打ち上げられた。
渡り初めは慣習に従い、この日にために選出された一家三代、それも三組の夫婦が先頭で来賓や関係者がこれにつづいて渡る。つまり、親、子、孫の三代夫婦が渡ることによって、新橋の徳と繁栄を祈願したのである。
東風平間切<現・町>志多伯8番地神谷清幸<88才>一家。豊見城間切<現・市>翁長97番地大城牛<64才>一家。大里間切<現・村>当間11番地玉城盛造<75才>一家が南側から。また、北側からは、那覇区字泊国吉真高<56才>一家と同泉崎高江洲樽<77才>一家が渡った。この日の那覇はお祭り一色で、各地からの人出で賑わい、殊に渡地前之浜、落平<うてぃんだ。奥武山公園南側>の丘や沿岸は、言葉通り黒山と化したという。
県都那覇と南部地域を結び、流通の要となった明治橋。開通式の翌日から、通行が有料となった。
渡橋料=1人3厘。牛馬1頭に付き5厘。人力車1台6厘。駕籠<物資運搬用>1丁に付き1銭。荷車一台1銭。
現在の高速道路料金、那覇ー許田<名護市>間1000円や100年後の2003年8月10日に開通した都市モノレール那覇空港ー首里駅間290円に比べれば、安いものである。
新しい橋には関心が集まる。特別、用のない人たちも徒歩を試みる。となると、トラブルはつきもの。開通直後の6月11日付琉球新報に「夜間明治橋通行の危険」という記事が出てい、強盗、暴行の不祥事を伝えている。
断らなければならないのは、100年前の強盗は殺傷はしない。暴行といっても空手など、腕にウロ覚えのある若者たちが、通行人相手に「腕試し」をしたにすぎない。こうなると、那覇の空手家武道家が黙ってはいない。日暮れとともに明治橋に出向き、仕掛けてくる不埒者を「返り討ち」にした。このことは、いまでも、那覇の古老たちの青春快話として良く聞く。100年前の沖縄は平和だったのである。
明治橋は、1916年<大正5年>に改修。戦時中日本軍が、上陸する米軍を阻止する目的で爆破。しかし、米軍は上陸後、1953年<昭和28年>10月。長さ101メートル、幅21:1メートルの鉄筋コンクリート橋を架けた。
その後、さらに改修された明治橋は、東に渡り鳥が飛来する漫湖、西に米軍港と鯨が遊泳する慶良間諸島の海、その向こうに沈む沖縄の太陽の美しさを見せながら、那覇空港から市内入りする国内外の人々を案内している。

 次号は2003年10月2日発刊です!

2003年9月分
週刊上原直彦(100)<こだわって100>
週刊上原直彦(99)<罰金>
週刊上原直彦(98)<いい顔・点描>
週刊上原直彦(97)<とり憑かれる>

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