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毎週 木曜日発行!! 平成13年 11月1日創刊 | |
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2003年 6月26日 沖縄には、八八八六の30音で詠む「琉歌」がある。 島袋盛敏著「琉歌集」には、宮廷音楽の節歌として詠まれた節組の部。春夏秋冬はじめ相聞、名所、教訓、旅、願望、風刺等々、狂歌にいたるまでが、2833首記録されている。詠み人も琉球国王から上流階級の歴々、一般知識人、遊女、芸妓。そして、名が記されていない、いわゆる、詠み人しらずまで。 沖縄の老人たちは、元気で歌人。現在でも、生涯学習教室で詠み合った琉歌作品集を一冊にまとめたり、個人的には、73才、85才の「年日祝事=とぅしびーすうじ。生まれ年の祝い」の記念として、自作の歌集を出版。友人知人に配る方も少なくない。ある老人はこう詠んでいる。 “余所からどぅ年や 無理に寄らしみる 肝やなま二十歳 内どぅやしが” <ゆすからどぅ とぅしや むりに ゆらしみる ちむや なまはたち うちどぅやしが> 歌意=私の年齢。周囲の者が無理に寄らせているッ。本人の気持ちは、まだ、20才なのだが・・・・。 「おいくつですか。75才!お若いですねぇ」 「お若いですね」を褒め言葉のようにかけるが、考えようによっては無礼。裏を返せば「ほう。随分な年ですね」と、同義語だ。自分の年は、自分でよく分かっている。75才は、決して若くはないッ。しかし、だからこそ、気持ちの上だけでも20才に設定して余命を生きている。若いですねなぞと、無理に意識させないでくれッ。その意識が老化を促進するのだ。 老人のひがみも多少あるが、この老人は大いに抵抗している。 「年とぅカーギや なあ前々=年と容姿は人それぞれッ。ほっといてくれッ」 また、劇聖玉城朝薫<たまぐすく ちょうくん>は50才になった年の正月、次のように詠んでいる。 “寄ゆる年波ぬ 後先ゆ見りば 今どぅ百年ぬ 渡中渡い” <ゆゆる とぅしなみぬ あとぅさち ゆ みりば なまとぅ むむとぅしぬ とぅなか わたい> 歌意=人生50年というけれど、50才は100年の真ん中。 まだ、50年の余裕がある。 人生を大海原に例えた歌。渡中<とぅなか>は、大海原。沖合の意。 玉城朝薫。 1684年8月2日。首里儀保<しゅり・ぎぼ>の名家に生まれている。幼少にして父母と死別。祖父玉城朝恩に養育されるが、祖父の死後、その跡目を継いで王府の要職に就いた。1705年。21才にして越来王子朝寄に随行、薩摩に渡っている。帰国後、系図座、踊奉行、那覇港浚渫工事脇奉行などを歴任、手腕をふるった。芸術的才能は早くから注目されていた。音楽<歌三絃>は湛水親方<琉球音楽の確立者>の孫弟子新里朝住に学び、実演家としても名を馳せた。20才から30才の間5度、薩摩上りや江戸上りを経験。特筆すべきは、2度目の江戸上り<1714年>の際、通訳兼芸能団主任を勤め、大和芸能を吸収したこと。そして、能や狂言の様式を採り入れて、歌、所作、台詞を駆使した琉球独特の舞台劇「組踊=くみ うどぅい」を創造した。作品「二童敵討」「執心鐘入」「銘刈子」「人盗人」「女物狂」「孝行の巻」は、組踊「朝薫5番」と称され、現在でも都度、演じられている。劇聖と称号されるゆえんは、ここにある。 しかし、年齢に対して「まだまだ100才の半ば」と、意気軒昴だった玉城朝薫。1734年50才。かの歌を詠んだ正月の26日にし逝去しているのは皮肉。 さてと。 上原直彦も、来る10月23日で満65才になる。10年程前までは、数え年で平気だったが、このところ<満>で言うようになった。過ぎ行く歳月に未練があるのだろうか。 ところで。 行政用語では、75才以上を<後期高齢者>と称するそうだが、ほんとうだろうか。事実ならば、大変な差別用語だ。私なぞ<前期高齢者>の該当者なのか。 65才の抵抗である。 |
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| ◆今週の上原直彦◆
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| 2003年6月分 |
| 週刊上原直彦(87)<65才の抵抗> |
| 週刊上原直彦(86)<わたくしごと> |
| 週刊上原直彦(85)<煙草・こだわり> |
| 週刊上原直彦(84)<目、鼻、口> |