毎週 木曜日発行!!  平成13年 11月1日創刊
週刊
上原 直彦
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6月27日
連載 エッセイ
      「浮世真ん中」(35)

*南洋小唄

“恋しふるさとぅぬ 親兄弟とぅ別り
  憧りぬ南洋 渡てぃ着ゃしが”
歌意=恋しいふるさとの親兄弟と別れ、南洋諸島の新天地に夢を託して移民してきた。
戦前の沖縄演劇界の人気役者比嘉良順が、昭和14年、タイヘイレコード<蓄音機盤>に吹き込んだ自作「南洋小唄」の歌い出しの歌詞である。
旧南洋諸島は、現在のミクロネシアの一部。赤道以北のマリアナ、カロリン、マーシャル三島をさす。大正3年<1914年>第一次世界大戦開戦間もなく、日本海軍は諸島を占領。以来、第2次大戦中の昭和19年<1944年>米軍が占領するまでの30年間、日本国の統治下にあった。
沖縄人が南洋諸島に移民をした理由は三つ。(1)貧困と人口過剰の緩和。(2)日本統治地のため、ビザ不要で渡航できた。(3)労働によって、生活の安定が得られた。
昭和15年には、約5万人の沖縄県人が移住していた。南洋群島サイパン市庁は、サイパン島、テニアン島、ロタ島などを統治。他にパラオ、ヤップ、ポナペ、ヤルートの市庁があった。生産は、日本資本南洋興発会社の管理下の糖業が主。漁業も盛んであった。昭和19年2月23日。米軍はまず、テニアンを空爆。同年8月3日、日本軍が壊滅した時点には、サイパン島約6000人、テニアン島約3000人の沖縄人が戦没。
”明きてぃ初春ぬ 花咲ちゅる頃に
  錦重にやい 誇てぃ戻ら”
歌意=懸命に働き、貯蓄をし、初春のように花咲く豊かな暮らしを得たら、誇らしく故郷沖縄に錦を飾って帰ろう。
「南洋小唄」は、そう<願望>を込めて結んでいる。しかし、戦後の引揚者の中に「錦を重ねて帰還」した人は、ひとりもいない。持ち帰ったのは<命>ただひとつ・・・。
昭和53年<1978年>8月。テニアン島最大の激戦地カロリナス台地に「沖縄の塔」「専修学校慰霊碑」が建立された。引揚者の念願が33年経て叶ったのである。
琉球放送のディレクターだった私は、末吉晟邦カメラマンと共に除幕式取材のため、関係者及び墓参団に同行した。沖縄で採石したトラバーチンで建立された二基の慰霊塔は、カロリナス台地の草原の真ん中に、白いアクセントをつけていた。前日の豪雨はウソのように上がり、除幕式当日は快晴であった。太陽と海の青がまぶしい。
早朝、南洋群島帰還者会宜野座朝憲会長らと共に現場についた私は、すぐにサンシンを取り出した。慰霊碑の前で「南洋小唄を歌おう」これが、沖縄を発つ時からの想いだった。真新しい「沖縄の塔」と向き合って歌い出した。
 “寝てぃ醒みてぃ朝夕 胸内ぬ思みや
    男身ぬ手本 成さんびけい”
歌意=寝ても醒めても朝夕思うことはただひとつ。故郷の愛する人のためにも、男として成功を手中にすること。
ここまで歌ったとき、突然、上空がかげった。「んッ?雨雲か」そうではなかった。
カロリナス台地の山手から数千いや数万の蝶々が飛んできて、慰霊塔の上をしばし旋回。合図をしあったように丘の方へ飛び去った。「さすが南洋。不思議な現象をみせるものだ」。と、次の瞬間、今度は4、50メートルはあろう反対側の断崖絶壁の海からわき出した如く、これまた無数の海鳥が飛来。慰霊塔の真上を舞った後、鳴き声を残して、海へ帰った。単なる不思議な現象としては片づけられない。「御霊が感応したのだッ」宜野座会長はじめ一同、感動に身を振るわせて合掌した。
このことを時にふれ逢う人にするが、たいていは、疑わしい目になる。それでいい。信じようと信じまいと、24年前の夏。実際に経験したことなのだから・・・。

 次号は2002年7月4日発刊です!

6月分
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週刊上原直彦(34)*少年たちの戦争
週刊上原直彦(33)*ニッポン!チャチャチャッ!
週刊上原直彦(32)*旅ゆけば・・・。

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