毎週 木曜日発行!!  平成13年 11月1日創刊
週刊 上原 直彦 ニュース
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4月25日

連載 エッセイ
      「浮世真ん中」(26)

*影ぁ踊い<かぁがぁ うどぅい>

映画はかつて「静止写真が動く、活動する」とあって「活動写真」と呼ばれた。
いまでも、テレビのそれではなく、映画作りにたずさわっている職人肌のプロたちは、自らを「活動屋」と名乗る。江戸時代後期に入ってきた静止写真が、いきなり動き出し、しかも、銀幕<スクリーン>に大写しされる。人々は大いに驚いたことだろう。
活動写真。沖縄には、大正期に入ってくるが、これを「影ぁ踊い」と名付けた。実像ではない影が動く。この動きを「踊り」になぞらえたところなど、日常生活の中に歌や踊りをもっている沖縄らしくて、意を得て妙。
戦後の沖縄における映画。昭和23年。興行権、つまり、興行認可をいち早く得たのは、沖縄映画興行社社長宮城嗣吉氏<明治45年生−平成13年没>後に同社は、映画、演劇の殿堂「沖映」へと発展。興行界をリードして行く。そして、いまひとり、高良 一氏<明治40年生−平成8年度没>の存在も大きい。奇跡の一マイル那覇国際通りの真ん中に、沖縄戦の最中、伊江島で戦死した報道写真家アーニー・パイルの名を冠に付けた「国際劇場」を設立。始めは、山田巡回映画社の無声映画をかけて注目を集めた。社主山田儀認弁士の名調子が大うけ。軍政府情報情報部が上映するアメリカPRのトーキー映画よりも、はるかに面白く、少年だった私も胸躍らせて「影ぁ踊ぃ」の虜になっていた。活劇もの「怪傑はやぶさ」「南京のサム」時代劇、阪東妻三郎主演「鯉名の銀平」嵐寛寿郎主演「右門捕物帳」等々。
文化映画と称して、軍政府民間情報部が巡回上映する映画は、各地の学校の校庭でなされた。夕刻、校庭にいきなり四、五本の柱が建てられ、シーツを代用したスクリーンが張られる。映画の中身は「自由と平和の国アメリカ」のPRもの。野外の即席スクリーンは、多少の風にもゆれる。すると、そこに映し出されたトルーマン大統領やマッカーサー元帥の自信に満ちた勝利者の顔が、ゆらりゆらりゆれ、歪み、今風に言えばエイリアンのように恐ろしかったのは、敗戦国の少年だったからだろうか。それでも、映画日のものが珍しく、見入っていた。
その点、弁士映画は楽しかった。東京、大阪あたりから、奄美大島を経由して入ってくる闇フィルムは、殊に面白かった。輸入本数が少ないせいもあって、同じ映画をタイトルを変えて上映するのだ。例えば、嵐寛寿郎の「右門捕物帳」と、手書きされたポスターが張り出される。見る。二、三週間すると今度は「むっつり右門・謎の八十八夜」がかかる。見る。内容は前に見たものと同じ。さらに、一ヶ月もすると、町回い<まちまぁい・チンドン屋の街頭宣伝>が、仰々しく「嵐寛寿郎の最新傑作ッ「右門捕物帳・謎の死美人」を連呼する。「謎」という言葉に好奇心をあおられた上原少年は、おふくろに泣きついて映画賃をせびって見に行く。内容は、最新作とは、うたい文句のみで、二度見た作品。しかも、各地を巡業するうちにフィルムが焼き切れたのか、前に見た数カットがなくなっている。が、誰からもクレームひとつつかない。娯楽に飢えていたのである。
しかし、少年が有料映画に浸ることは叶わない。そこで、上原少年は一計を編み出した。学校帰りに映画劇場<もちろん露天>に立ち寄る。そこでは、技師が昨夜上映したフィルムの巻き戻しをしている。それを手伝うのだ。入場券一枚が報酬。
私の場合、トーキー映画に接したのは、上原 謙、山根寿子主演「三百六十五夜」“みどりの風におくれ毛が やさしくゆれる恋の夜・・・”主題歌の意味は理解出来なくても感動的だった。しかも、主演の少年の名字<上原>とは、何と天の啓示。「よしッ。この人を頼って映画俳優になろうッ」と、決心したことではあった。
上原少年を大人の仲間入りをさせてくれたのは池部 良、山口淑子主演「暁の脱走」中国戦線を舞台に激しく燃え上がる日本兵と中国女性の恋。私は初めて接吻の仕方を教わった。以来、私と接吻を交わした女性は、もう、他の男性からは唇の快感を得られなくなったと、泣きながら訴えている。

 次号は2002年5月2日発刊です!

4月分
週刊上原直彦(26)*影ぁ踊い<かぁがぁ うどぅい>
週刊上原直彦(25)*好きッ・嫌いッ
週刊上原直彦(24)*京都にて・湯豆腐
週刊上原直彦(23)*諺・俗語の中から・友人


「週刊 上原 直彦」発刊は
あの、「週刊 文春」と同日の毎週木曜日です!!

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